Artist's commentary
それじゃあ、おやすみなさい。
それが彼女と私の別れの言葉になった。彼女は永い眠りに着き、私はただひとりその目覚めを待ち続けた。あれから60年が過ぎた今、私の命は尽きようとしている。妻を娶り子を為すことこそしなかったが、私なりに悔いの無い人生を送ったと自負している。彼女の残していったスキマは聊か口が広すぎたものだが、あの艶かしくも穏やかだった日々の温もりが、常に私の心を満たし続けていたのだから。悔いがあるとすれば――願わくば、もう一度だけ彼女と言葉を交わしたかった。ただそれだけが心残りである。ああ、もう夜だ。目のまえがくらい。こんやはばかにしずかだ。かのじょはこんなよるがすきだった。ゆかりは…… 百聞は一見に如かずとは言うが、まさか三途の川の渡しがこんな年頃の乙女とは予想だにしていなかった。私の孫と言っても通用するだろう。いかにもやる気の無さそうな顔で、大きなあくびを隠そうともしない姿に、聊か不安が募る。しかし勝手の分からぬ死後の世界だ、見かけはどうあれ相手を頼る他ない。そう腹を決めて桟敷をまたぐと、彼女はまじまじと私の顔を見つめ、手元の紙束を数枚めくり上げると、慌てた素振りで私を船から降ろした。……何か不作法でもあったのだろうか。不安を募らせていると、渡しは不思議そうに首をかしげて呟いた。「ふぅん……変な死人もいたもんだねえ。妖怪の待ち人がいる死人なんて、さすがのあたいも初めてだよ」 そういって、指先を川べりのずっと向こう側へと向ける。そこに居たのは―――― 「何時間でもゆっくりしておいでよ。閻魔さまのお墨付きだからサ」と送りだされたものの、私は心底戸惑っていた。不測の事態にも程がある。あんなに思い焦がれていたのに、いざとなると何を話したらいいのやら。話したい事は山ほどあるが、頭がさっぱり纏まらない。幸い、最初の言葉は60年前に決めているのだが。「おはよう、紫」と――。 / 下書きではマッサージ器と称して右手に電動こけし握らされて涙目な純情少女ゆかりんだったのにどこで道を間違えたのかごらんの有様だよ!