Artist's commentary
Untitled
この世界には表と裏がある。
コインに表と裏があるのと同じように、そこにはわたしたちと同じような世界が歪に広がっている。
しかしわたしたちから見たその歪さはあちら側では正しいことで、反対にあちら側から見たわたしたちは歪に映っているのだ。
鏡に映したあべこべな自分自身を見るように、あちら側も鏡を通してあべこべな自分自身を見ている。
千束の体に麻痺が起こったのはちょうど梅雨入り直後のことだった。
初めは四肢の末端の軽い痺れ程度の症状だったものは、少しずつ千束の体を蝕んでいった。
闘病生活開始から数ヶ月後、千束は一人でベッドから起き上がることも出来ないほど衰弱していった。
それでも千束は以前と同じように明るく振舞い、今日あった出来事をわたしに話し笑うのだった。わたしは、上手く笑えてただろうか。
千束の余命が宣告されたと同時に、原因の解明に一筋の光明が見えた。
平行世界へと転移し、もう一人のチサトを殺害し調律を行い、そして、生きて戻ってくること。それがわたしの使命となった。
千束の不調の原因は、平行世界のもう一人のチサトの心臓の病が完治したことによるものだった。
二つの世界の幸福の容量は初めから定められているものであり、片方が幸福になれば不幸が訪れ、不幸になれば幸福が訪れる。幸福は不幸であり、そして不幸は幸福でもある。そうやって世界は常にバランスを保とうとする。
その事実を聞かされたとき、わたしは今までどこか宙ぶらりんだった体に重さが戻り足に地がつく感覚がした。間違いを、正すべきだと心が叫ぶ。意思に火が灯り全能となる。
雨が降っている。
「……たきな、準備出来たか?」
「はい、問題ありません。いつでもいけます」
雨は嫌いだ。
「そうか……たきな、最後にもう一度だけ聞くが……本当に、たきなは……本当に、それで……ボクは……」
「クルミ。わたしはもう、覚悟なんてとっくの前から決まりきっているんです。何も問題はありません。だから、これがどうか正しい選択なのだと祈っていてくれませんか?」
「……分かった。たきな、何度でも言うが、ボクはお前の意思を尊重する。乗り掛かった船なんだ、最後まで付き合うぞ」
「ありがとうございます、クルミ」
「あぁ……」
千束の苦しさを思い出すから。
『座標計測、X-42500、Y8416、Z-8456.69、β2581。誤差修正……修正。座標入力完了。アクセスコード入力。コード*****。転移準備完了。これよりβ世界線への転移及び、"調律"を開始します。転移には空間酔いにより人体への深刻な影響を及ぼす可能性があります。十二分に注意して下さい。では井ノ上様、よろしいでしょうか?』
「はい。お願いします」
旅が始まる。
『それでは、転移までのカウントダウンを開始します。10、9、8、7…』
信じろ、手足を。
『…6、5、4…』
信じろ、意思を。
『…3、2……』
信じろ、己を。
『…1、転移、開始!』
全てを正して、甘いものでも食べに行こう。